2011年4月13日

依存が生み出すもの ―fujimonao的見解―


先日禁煙を決意された某ブロガーさんがTwitterでめげそうになっている旨をつぶやいていた。

その方はとても長く喫煙生活を楽しんでいたが、MacBookAir購入のために禁煙に踏み切った。
喫煙生活が長かった分、日々とても辛い思いで過ごされているのだろう。

その旨をつぶやいていたのでその方とTwitterでお話ししていたら、ふと気になった箇所が。

「自分はタバコがないと何もできない」
※ぼかし済み

この一言でふと”依存”というものの怖さを思い出したのでちょっと書いてみる。



依存と思い込み

私が物心ついた時から依存していたのは、母の存在だ。
母は私が何らかの行動を起こすたびに口をはさむ。

「あんたは行動が遅い」
「自分一人じゃ何もできない子供だ」
「こんなことも出来ないなら外に出ても誰かを困らせる」

見事にマイナス面ばかりを取り上げる。
これに面と向かって「そんなことはない!」と無視して行動を取ればいいのだが、それが出来ないのは依存というものが内にあったからだ。

昔からこういった事を言われ、行動を起こそうとしてもすぐに母が口や手を出して行動を奪ってしまうので、その内依存するようになってしまった。
依存というものは簡単なもので、不安要素をなくすためにそれに頼ることを続ければそれ無しでは怖くて生きていけないとさえ思う。

こうして思い込みが生まれ、母に依存した結果、私は「母がいないと生活ができないんだ」という思いにかられて母の機嫌を損ねないようにと母中心の生活を送ることになった。

思い込みは所詮思い込み

もし「これがなければ生きていけない!」というものがあるという人。
※飲食全般や風呂などは人間として本当に生きていけなくなるので省いてね

この思い込みをなくす、つまり依存している対象がなくなる生活を一度思い描いて欲しい。

どうだろう?
今とてつもない恐怖心を抱かなかっただろうか?
きっとストレスでおかしくなっちゃう!とか思わなかっただろうか?

はっきり言おう。
それは本当に思い込みでしかない。

母がいなければ何もできないと思い込んでいた私が、今や母の手助けがなくても料理や炊事全般、果てはこんな風にブログを書いたりiPhoneアプリ開発もしちゃおうだとか出来るようになった。

母から離れても何も問題はないのだ。
それはもしかしたら旦那という存在に依存の対象が変わっただけかもしれない。

しかし断言出来る。
もしも旦那がいなくなっても、私は同じくして今のように行動を起こせる。

とても強い依存から離れた人には理解できるかもしれないが、一度その強い依存から離れると人生観ががらりと変わる。

ぎゅうっと縛っていた紐がちぎれて、偏っていた思考が広がるようなものだ。
※うまい例えなのかどうかは知らないので伝わらなかったらスルーでいい

今現在強く依存しているものがある人、それをもしやめなければいけない状況がきたら「どうにでもなってしまえ!」とすっぱり絶ち切って新しい生活を過ごしてみてほしい。
きっと依存していた時よりも新しいものが見えてきて、思い込みであったことがわかると思う。

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